逆走式・静岡ロケ報告(10)熱海・西紅亭

クランクイン以来、休みなしで働いてきた撮影隊の疲れやストレスが、ピークに達したと思われる10月15日(金)。
この日は、熱海のホテル池田別館・西紅亭(せいこうてい)での撮影2日目となる。普段はお茶会などで使われている古い日本家屋を、東京・青山の荒木と百合子の家に見立て、2日間にわたって撮影した。

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亀裂が深まる荒木と百合子。いやいや青山の家に戻ってきた百合子を、荒木は全身の喜びで迎え、彼女との関係を修復しようと躍起になる。これほど愛されているのに、百合子はどうして荒木を捨てようとするのだろう? 
彼女にとっては、自分を成長させてくれるものが全てだった。妻を愛し、家庭を愛する男は「精神生活の荷物をすっかり下ろして、休みたがっている」と、妻によって批判される。

二人の間の柱が、心理的懸隔をシンボリックに表現しているようだ。西紅亭の二階が、荒木の部屋と、二人が食事などする茶の間として使われた。
宮本百合子の小説「伸子」では、人付き合いの悪い鬱屈した男として描かれている夫、荒木茂(小説では「佃」)だが、大杉漣さんはその喜劇的側面も併せて、奥行き深く表現してくれた。

映画初出演で、主役の一方、中條百合子を演じたシンガーソングライターの一十三十一(ひとみ・とい)さん。時にはエゴイスティックにさえ見える百合子の、作家として・人間として成長することへの強い願い、意欲、野心を見事に体現した。
撮影中、地元TVのインタビューに答えて「これまでは(シンガーソングライターとして)世界の中心にいると思っていたけれど、撮影の現場ではそうはいかず、戸惑った」と発言していたが、ステージの中心にいる人だからこそ、大正時代の女性作家の剄(つよ)さを表現できたのだろう。

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この日は、チーフ助監督のS氏が撮影から降りるという椿事が出来(しゅったい)した。朝、合宿している畑毛温泉から熱海に向かうロケバスのなかで、浜野監督と口論になり、車から文字通り降りたのだ。
監督とチーフ助監督の対立はクランクイン当初からあって、何度か小爆発したが、遂にこの朝、大爆発を迎える。幸い、ロケは山場を越えかけていて、S氏もまたその後の連絡を取り合ってくれたので、この後の撮影に支障は出なかった。
この日の翌々日は初の撮休となり、ずっと底流していた二人の対立がもたらす緊張感から解放されたように、現場が伸び伸びしてきたのは皮肉な成り行きだった。(撮休明けのマッケンジー邸の撮影から、急きょ東京から呼び寄せられた演出部応援のK君が参加している)
なお、この監督とチーフ助監督の二人は、前作『こほろぎ嬢』(06年)でも、鳥取でつかみ合いに近い喧嘩を演じている。お互いに予測できなかったのかな?